かつて奈良は僧坊酒といわれる酒がふんだんに造られたところである。寺院では飲酒や酒造は厳に禁じられていた筈なのに、どうして酒造りが盛んになったのか。その理由が知りたくて、奈良郊外にある正暦寺(しょうりゃくじ)という寺を訪ねた。入り口には「日本清酒発祥之地」の碑が立っていた。
その昔、寺院の経営は荘園からの上納米に支えられ、寺社勢力と呼ばれるほどの力を持っていた。それが、14世紀の南北朝の内乱により寺社領荘園は、守護・地頭らによる侵略にあい、年貢は減収となり、兵糧米の現地調達のため取り上げられるなど、経営難に陥ることになり、自ら事業をはじめざるを得なくなっていく。正暦寺も例外ではなく、酒の製造販売を行うようになっていった。
背に腹は変えられずといったところだが、キリスト教修道院におけるワイン醸造やブランデー造りとよく似たところがある。酒造りに必要なことは、原料が豊富で、労働力があり、そして醸造技術を担う知識人がいることである。修道院では、ミサのためのワインが必要なことからブドウが栽培されていた。ワインの醸造技術があり、薬を作る蒸留技術もあった。日本の寺院には豊富な上納米があり、醸造人員にも事欠かなった。そして知識人集団である寺院から醸造技術が生み出されていった。正暦寺が「清酒発祥の地」として今に名を残すのも、「菩提もと」と呼ばれる酒造技術の故である。
「菩提もと」というのは、生米に蒸した米を浸しておき、乳酸発酵させて発酵に有害な菌の増殖を抑え、その浸漬汁を使って夏場でも安全に酒造りが行える秘法である。この製法は後に、「生もと」と呼ばれる酒母造りへとつながり、現在の清酒造りの基礎を築くことになる。
仏教の教えには、不飲酒(ふおんじゅ)という戒があるというが、守るのが難しいから戒が生まれる。寺院や修道院の酒造りは、酒が生まれるべくして生まれる、いわば煩悩世界を内包していた環境が産みだしたもののように思えた。 |