明治中頃まで焼酎は勝手造りだった!!
本格焼酎が戦国時代後期には九州で飲まれていたという話しを先日書いた。
江戸時代にはその強いアルコールとしても珍重されており、薬用にも使われた。壱岐では刀傷の治療用として焼酎が各戸に常備されていたようだ。
南九州では麹菌を使い今の造り方の原型のようなものが形作られ、本州では清酒の酒粕を使った粕取焼酎の技法が広がっていく。しかし清酒と異なるのは、江戸時代から明治初期まで、焼酎造りの専業者がほとんどおらず、必要に応じて近所に住む仲間が集まり、その都度資金や原料を出し合って製造していたと言われることだ。しかし日露戦争を控える一八九九年に酒税法が施行されると、このような方式の酒造りは禁止される。焼酎造りグループは解散し、その中から代表者が選ばれて国家から免許を得て焼酎蔵元の原型が誕生する。
焼酎造りグループのような形態が最後まで残っていたのが、伊豆諸島最南端の青ヶ島である。他の地区との交流が隔絶された孤島のために戦後も暫くの間は、この密造スタイルの酒造りが継続されていたが、学術調査団などが入り、この島での焼酎造りも注目を浴びるようになり、他の地域と同様に代表者が免許を取得して、製造するというスタイルに変わった。
株式会社酒文化研究所 代表取締役狩野卓也(5/23 日刊ゲンダイ掲載)
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