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福岡港から高速船、冷たい海風に吹かれながら玄界灘を約1時間。大陸と日本本土の間に浮かぶ島、壱岐島に到着です。ここ、壱岐が歴史に刻まれたのは弥生時代、三世紀ごろの日本の地理・風俗・社会・外交など記述している「魏志倭人伝」に「一支国(いきこく)」として紹介されています。船から見える深く、濃い海の色と、春まで開かない新芽を隠した錆色の木々が長く続く壱岐の歴史を物語っているかのようです。
「焼酎の歴史に関する資料がほとんど無いのです」と蔵元さん。「どのようなルートで蒸留技術が壱岐に伝来したのかもはっきりしていません。しかし、南ルート説(東南アジア→琉球→鹿児島→壱岐)からの伝来ではないでしょう。北九州の焼酎は壱岐から伝わったであろうといわれています。鹿児島から来たのなら北九州を飛ばしてわざわざ壱岐で蒸留するとは思えない。しかも当時の薩摩藩は幕府と敵対していたため、外からの侵入者を拒んだのです。そこから技術が伝来するよりは北ルート説(朝鮮半島→壱岐)からだと思ったほうが自然です。大陸と日本を結ぶ壱岐島、歴史的にも文化的にも様々な影響を大陸から受けました。その中に蒸留技術があってもおかしくない」
佐賀県の伊万里焼、有田焼などの磁器製造の技術は「やきもの戦争」とも呼ばれた豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年:文禄の役、1597年:慶長の役)で連れ帰った朝鮮人陶工たちがもたらしたものだと言われています。その時に蒸留技術の伝来があったのではないかと蔵元さんは語られます。
『麦焼酎発祥の地』といわれる壱岐島。平成7年にWTO(世界貿易機関)は長崎県壱岐島の地理的表示を認定しました。「壱岐」と表示するには「米麹及び長崎県壱岐市の地下水を原料として発酵させた一次もろみに麦及び壱岐の地下水を加えてさらに発酵させた二次もろみを壱岐市において単式蒸留機で蒸留、かつ容器詰めしたもの」とされています。しかし島内では、決められていないのに原料の分配は米麹3分の1、大麦3分の2ということを7蔵すべての蔵元さんがおこなっています。江戸時代からの伝統で、この配分が良く発酵し、良い焼酎を製造できるのだそうです。伝統を守り、多くの麦焼酎が麦麹で製造されている中、米麹を使う「壱岐焼酎」に誇りを持つ蔵元さん達。今までの壱岐焼酎の歴史がはっきりとはしなくとも、これからの壱岐焼酎の歴史はしっかりと、脈々と受け継がれてゆくだろうと思ったのです。 |
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